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“期待”

親が大人になる子どもに期待しても許されることはあるのだろうか。期待とは何か。無関心ではなくつよい関心があることだろう。自分のためにあるいは本人のために、他人に期待しても許されることはあるだろうか。子どもと他人の違いは何か。社長が社員に期待することは会社のためにも本人のためにも多分許されるのだろうけれど。

こんな人間になってほしいと親は言うけれど、親であれ他人が人に命令する権利は無い余計なお世話だと考える子は多い。親子は他人ではないと親は思いたい。親に子を育てる義務は有るが成人すれば義務と権利の関係が解消されることを理解したくない親が多い。

子どもが成人してどんな人間になってほしいか、ひとつだけ願うとするなら、わたしは何を願うのだろう。お釈迦さまと同じようなことを願うのだろうか。

“行為と発言の責任”

組織あるいは誰かに主体性を期待し空想することは愚かだ。言うのであれば、自分がその可能性を実践するというべきである。

分科一類法学部卒国家公務員キャリア組かもしれない大蔵省の若き課長たちと酒を呑んだことがある。大蔵省が批判されているが自分たちにはどうにもならない、と言う。自分という主体は、何処にあるのか。貶されて泥棒猫のように一生月給泥棒をするつもりなのだろうか。キャリア組の真似をする必要は無い。

行為と発言には責任があると言ったら会議で発言する社員が居なくなったという笑い話がある。萎縮しないような運営が必要であると無知蒙昧無能無責任な評論家が言うけれども、そのような社員が多い会社に社会的存在理由は無い。単に評論家である大前研一に経営者としてのすぐれた才能がないのは自明の理である。

内部に評論家はいらない。必要なのは、自分ひとりのみで問題解決の責任を負おうとする主体である。隗より始めよである。評論と結果責任との違いが理解できない内部者は1円の価値もない。

深く考えることが持続しない体質と深く考えつづけなければ不愉快になる体質とがある。体質は本質的生きかたの選択である。あなたは論理が正しいからその判断をしているのではなく、生きかたとして都合のよさそうな判断の方法を選んでいるだけだ。物心ついたころからの生きるための習性である。すこし考えれば馬脚があらわれる論理であり15歳の選択でもある。そういう生き方しか出来ないのだ。

誤ちを自覚できない。誤ち率50%未満は誤ちのうちに入らない許容範囲だくらいの知能しか持たない。クビになりかかっても気がつかない。何度でも繰り返す。総括できない知能なのだ。息子ならどう対応するだろうかと考えた。激しく諦めてしまうのかもしれない。

教育の本質

高い所から低い所に水が流れるような行為とかお金持ちが貧乏な人にお金を恵んであげるような行為が教育とは思わない。教育は対等な関係であり闘いのようなもの恋のようなものでもあるが、本質はコミュニケーションである。人は皆悪人なのですからわたしも悪人です、あなたも悪人であることを悟りなさい、そうすれば救われますというお釈迦さまの考えに似ているかもしれない。両者が対等に自己に向き合わなければならない。自己への問いかけと相手への問いかけは同質でなけれぼならない。

自分に対して問いかけないことを人に問いかけてはならない。教育について考えることは自分について考えることである。

議論の本質は、相手の言葉を借りて自分の算数の不足を自分で発見しようとすることである。自分の或る部分を否定し止揚することである。ところが残念なことに自分を否定できる人は多くはない。心が壊れ拒否するのだ。

“歴史”

歴史は繰り返すという人がいる。時代の精算にせよ予言にせよ愚かな幻想である。歴史とは何かと考えなければならない。個人は時代の象徴であり時代と個人の個人的な理由は指紋のように時と空間を超え再現することはない。わたしは個人である。

立花隆とディミトリルソプロスの会話

みんなが知るべきだと思うんです、と立花隆は言った。立花さん、あなたはそうは思わなかったのですから、まずはじめにわたしが知るべきだったというべきなのではないでしょうか。