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4-3. トイレ (7)

(※注意:今回は特に汚い話です!)
いわばポットン便所なのですが、その後始末が非常に悪い。当然、下水道は整備されていないので、その溜まった汚物をどこに棄てるのかと言うと道に棄てていたとのことです。今でもヨーロッパの都市で中世の面影を残しているところに行くと、全面石畳で道に車道と歩道の区別がなく、側溝ではなくて道の中心に向かって勾配が付けられている道があります。つまり汚物を道に棄てて、真中に集まって流れるようにしていた訳で、下水道が地上にでて来ている状態です。
棄て方も悲惨なもので2階以上に住む人はオマルで用を足して、それを窓から道に投げ捨てます。当然、道を歩いている人もいるので汚物が掛からないように「Gardez a l’eau!」(水に気をつけて!)と3回言ってぶちまける、こんなルールが決められていたそうです。間違ってかけられてしまってはたまったもんじゃありません。
当然のことですが、整備された下水道の様に機能するわけはありません。街には汚物が溢れ、常に凄まじい臭気が立ちこめていたと言います。そういう状況もあって、臭いを誤摩化すために香水が発達したようですし、ハイヒールも汚物を踏んでも足には付かないようにとの配慮でデザインされたものだったようです。必要は発明の父とはこのことでしょう。

4-3. トイレ (6)

本稿では度々、古代ローマについて書いていますが、その版図と言えばもちろん現在の都市ローマに限ったことでは無くて、最大の領土で言えば現在のイタリア、フランス、スペインはもちろんのこと、北アフリカやアドリア海を超えてトルコ、中東の方まであったので、それは広大なものでした。

図4-3-4:ローマ帝国

図4-3-4:ローマ帝国

例えばパリは元々、パリサイ人と言われているケルト系の民族が住み着いた後に古代ローマによって占領されて都市化しました。現在、中世美術館となっているブルゴーニュ公爵の館の脇にはローマ時代の遺跡が残っています。(そこにトイレの遺構があるかは定かではありませんが。)このようにローマに占領されることによって都市化された現在の都市はわりと多いように思えます。
しかし、古代ローマが勢力を振るったのは4〜5世紀くらいまでで、その後は初期キリスト教文化が栄える中世の時代になります。先述の通り、(全ての都市でとは言えないでしょうが…、)ローマ時代には水道を利用した水洗便所だったものが、一転退化したと言って良いでしょう、トイレらしき場所に穴があってその下に溜める場所があるだけの構造だったようです。

4-3. トイレ (5)

古代の西洋ではギリシアとローマが対比的でおもしろいです。ギリシアの遺跡では殆どトイレの遺構は発見されていないようです。一方でローマは水道橋で上水道を引いてくるなど、上下水道の技術が発達していたのは有名な話で、トイレもきちんと整備されていました。

図4-3-2:ローマのトイレ

図4-3-2:ローマのトイレ

元々、銭湯の文化がある日本人にはローマの公共浴場は何となく想像し易い状況ですが、ローマではトイレも共同だったわけで、上の写真に人が並んで用を足している姿を想像すると変な感じはします。ちなみに水道が発達していたとは言え、地上階より上の階にトイレをもってくるのは困難だったようで上階の住人も下階に下りてくる必要がありました。一方、ギリシアでトイレが発達しなかったのは、地形的に島が多く、大陸側も切り立った土地なので水道の整備が困難であったからだと思われます。例えばパルテノン神殿のあるアクロポリスの丘は非常に切り立っています。そこに水を引こうというのは極めて困難であったことは想像に難くありません。ギリシアの下水道の未整備は人口増に伴う衛生環境の悪化を引き起こし、それがギリシアの衰退に繋がったという学説もあるようです。

図4-3-3:アクロポリス

図4-3-3:アクロポリス

4-3. トイレ (4)

冒頭にも書きましたが、人の動物的な生理現象は止めようがないので、人類が建物を建てるようになって割合早い時期に既にトイレは存在していたようです。
紀元前25世紀にはインダス文明のハラッパにトイレと風呂の遺構が見つかっています。ここでは各戸を貫通して水路が流れているので、最初期から水洗便所が成立していたということが分かります。同様のシステムは同時代のモヘンジョ=ダロやロンタルといった都市でも見られていたようです。

図4-3-1:ロンタルの水洗便所

図4-3-1:ロンタルの水洗便所

このように人類史の最初期から水洗トイレが見られるように、トイレに関して言えば発展の末に水洗になったというよりも、地域によって衛生観念や処理方法に差があると見た方が良いようです。
例えば、イエメンの首都サナアの8世紀頃に建てられたお城では上階の端にトイレがありました。トイレだけお城の外壁から城外に飛び出していてその下に直接、用を足したとのことです。これだけ聞くと非常に不潔なようですが、中近東のように非常に暑くて乾燥している地域だと便がすぐに乾燥してしまうので、衛生面では全く問題がなかったとのことです。環境を利用したとても面白いあり方です。
同様に砂漠の民にもトイレが必要ありません。そもそも遊牧民は建物すらないですが、定住の民でも近くには衛生面では水よりもきれいな砂漠の砂がトイレの役割を果たしてくれます。砂は日中の非常に強い日差しに晒されるので無菌状態だそうで、そこに用を足してもすぐに殺菌されますし、糞尿自体が砂漠に住む虫(フンコロガシ)などの貴重な栄養源ですので、自然のサイクルの中に還ります。砂は全く水と同じ使い方で、お尻を拭くのも砂ですし、手を洗うのも砂です。

4-3. トイレ (3)

中公文庫から出版されている谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』に「厠のいろいろ」というエッセイが収録されています。またタイトルとなっている「陰翳礼賛」というエッセイの中にも日本建築における便所について一部書かれており、現代的な感覚からするととても興味深い論考になっています。
「…日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの陰に設けてあり、…その薄暗い光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持ちは、何とも云えない。」
ある意味では英語の[rest room]的な話なのかも知れませんが、「ご不浄」的なニュアンスというよりもむしろ心安める瞑想の場としての日本の便所の美学を書いています。白い壁に囲まれた水洗の西洋式トイレは衛生面で優れていることは理解しつつも、
「総てのものを詩化してしまう我等の祖先は、住宅中でどこよりも不潔であるべき場所を、却って、雅致のある場所に変え、花鳥風月と結びつけて、なつかしい連想の中へ包み込むようにした。」
との解釈は、現代のトイレを再考する上で参考になる論考です。