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5-8. コンクリート (10)

この「近代建築の5原則」を見ていると必ずしも5つというよりも、それぞれが重複している内容に見えてきますが、何はともあれ意匠上のこれらの構成を達成するための建築技術はやはりRC造であるということに尽きます。特に「自由な平面」「水平連窓」「自由な立面」の3つは全て壁構造からRCの柱梁による構造への変更を前提にしてこそ成立するものです。

図5-8-8:ドミノハウス

図5-8-8:ドミノハウス

上図はコルビュジェが一次大戦後の住宅の大量供給のために考案したドミノハウスと呼んだ住宅のモデルですが、要するに壁構造に対する柱梁構造の提案で、プランニングはいかようにもフレキシブルに対応すれば良いと考えられ得るものです。コルビュジェのアイディアを純粋に昇華させればこのような極めて単純なモデルとして示されるということだと思います。
また、「屋上庭園」というのもRC造ならではのアイディアです。現代では木造住宅の陸屋根といってもあり得るくらい防水性能が高くなっていますが、当時の防水技術ではあり得ないことでした。防水の原則は十分に屋根勾配をとるということが基本で、そうすれば施工上、多少防水に不具合があったとしても水は自然と流れてくれるからです。しかし、RC造となると打設時に一体化したコンクリートの塊として打つことが出来るので、躯体そのものである程度の防水性というのを期待しても良いということだったのだと思います。当然、コンクリートは水が浸みるので、現在は間違いなく防水加工を施しますが、当時としては陸屋根を実現する有効な工法だったと考えてよいのでしょう。
また、ピロティも建物本体を地上に浮かせるわけですから、その柱に相応の力を持たせるということで、RC造が可能にしたと言えるものでしょう。

5-8. コンクリート (9)

さてこれまで述べてきたようにエンビックから始まりプレモダンにかけて構造材、構造形式として普及してきた鉄筋コンクリート造ですが、この技術をバックグラウンドとして意匠的な言説を明確に打ち出したのは、やはりル・コルビュジェの「近代建築の5原則」[Les 5 points d’une architecture nouvelle]と考えてよいかと思います。

図5-8-7:サヴォア邸

図5-8-7:サヴォア邸

これを最も良く表している作品として取り上げられるのがこのサヴォア邸です。まずは5原則の内容をおさらいしてみると、

ピロティ[les pilotis]:
建物を持ち上げて地上階を動線空間とする、地上階の湿気を避ける、建物の下も含めて周囲の庭を連続させる、といった目的があります。ピロティという言葉自体は「柱」という意味です。
屋上庭園[le toit-terrasse]:
伝統的な勾配屋根からフラットな陸屋根にするという意味があります。そうすることによって屋上はアクセス可能な場所となり、日光浴の場所として、あるいはスポーツやプールといったアクティビティを提供する場所となります。
自由な平面[li plan libre]:
壁構造が主流であった西洋建築において、柱梁構造として壁を非耐力壁とすることで、構造から独立した平面形状を可能とする。
水平連窓[le fenêtre en bandeau]:
「自由な平面」と同様に外壁を非耐力壁としているので、窓の上部にまぐさが必要がなくなり、水平に連続する窓が可能となります。
自由な立面[le façade libre]:
これも上2点とどうように、構造から独立して率面構成が自由になるということです。

5-8. コンクリート (8)

ここでポイントなのが表に出ている4本の柱は仕上げ材ではなくて、無垢の大理石だそうですが、これらは建物の荷重を支えていないそうです。建物本体の構造は実はRC造で、広場に面して隅切りされた角の部分はRCの柱に大理石の仕上げがなされているということです。そのような事実は現代的な我々からすると多少の混乱を引き起こします。結局、大理石は装飾なのではないかと?恐らくそれはやはり現代的な、あるいは日本的な大理石に付着した素材に置ける意味なのであって、あくまでも大理石は装飾的な素材ではなくてただの仕上げ材であると考えるべきなのでしょう。写真でぱっと見ても分かりませんが、この大理石の貼られ方はあえて目が合わないように貼られているそうで、そうなるとあくまでもこれは表層なのだよ、というジェスチャーとして考えられるでしょう。近代建築における合理化の流れの中で、構造と表層が一致することこそが合理的=最適であるという発想がモダニズムにあるとすれば、この建物はあくまでも歴史主義とモダニズムに挟まれているプレ・モダニズムの建物であると考えて、この表層と構造の不一致をあえて見せるということで、装飾をふくめてそれらの諸問題を顕在化させていると読み取っても良いのではないでしょうか。

5-8. コンクリート (7)

図5-8-6:ロースハウス

図5-8-6:ロースハウス

このロースハウス、周辺の建物と見比べてみれば、実に装飾が少ないのがお分かりかと思います。ロースが著した本は「装飾と罪悪」というタイトルがついていますが、装飾を施すことがまさに罪悪であるかのような文章を残しています。これは当時のウィーンに溢れる、ロココ、バロック及びそれに続く歴史主義的建築の潮流に対してのアンチテーゼであったと想像がつきます。
しかし一方で、現代の私たちにしてみれば、1、2階廻りの大理石のファサードについては非常に装飾的に見えますが、ここではまず、大理石は大理石の柄が出ているだけであって決して装飾ではないという理解をするべきなのが1つ。また、ロースはギリシアやローマの古典に傾倒していたということもあり、それらの時代のファサードの構成、基壇の上に柱が並び、その上に軒蛇腹、ペディメントが乗るという建築的なあり方は決して装飾ではなくて、建築の最もプリミティブなあり方だと見ているように思えます。ロースハウスは上階の淡白な部分を除いて、大理石で出来た1、2階廻りだけ見てみても、構成は非常にシンプルでかつ古代ローマ建築を思わせる大きなスケールを感じることが出来ます。

5-8. コンクリート (6)

引き続き鉄筋コンクリート造の新たな意匠的な展開を追っていきたいと思います。

図5-8-6:ロースハウス

図5-8-6:ロースハウス

1911年にウィーンの中心部で竣工したミヒャエル広場の建物、設計者のアドルフ・ロースの名前を冠して通称ロースハウスと呼ばれています。ウィーンはハプスブルグ家のお膝元の都市として発展し、郊外には17世紀から18世紀にかけて造営されたシェーンブルン宮殿やベルヴェデーレ宮殿などがあり、当時、絶対王政で栄華を極めていた絶対王政のフランスが築いたヴェルサイユ宮殿やフォンテーヌブロー宮殿にひけを取りません。都市においても、パリではオスマンによるパリの大改造が19世紀にありましたが、ウィーンでは街を歩くとどちらかと言えばそれより以前のバロックやロココの建物が目につきます。都市の構造としては、その他の欧州の諸都市と同様に元々は都市防衛を目的とした城壁がぐるりとウィーン市街を囲んでいました。ハプスブルグ家の中心都市だったわけなので、相当な規模のものだったと予想されます。パリと共鳴するかのように、19世紀後半にはその城壁は取り壊されてリングシュトラッセと呼ばれる大きな環状道路が建設されます。これがウィーンの旧市街を規定しつつ、その外側に市街がスプロールしていき現在の姿に繋がっています。
話をロースハウスに戻すと、そのようなバロックやロココのいわば壮麗な建築が立ち並ぶ中心地にこのロースハウスが建設されたわけですが、途中に当局によって建設が中断されるという逸話が残っています。上の写真を見れば一目瞭然ですが、1、2階廻りに比べてその上の階は簡素な作りになっています。その簡素さはややもすれば、貧相に映るということでしょう。