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今までに2つ窯を作ったことがあります。ひとつは小さいものでちゃんと1300度まで上がるもの。もう1つは大きいので、耐火レンガを益子から持ってきて茨城に作ったんです、30代のときに。大変だったよ、48時間寝ないで窯を焚いて。その時は温度計を使わないで、コーンを使ったり、あとは火の色で分かるようになるね。1000度くらいでオレンジ、1200度くらいで白くなってきます。でも空気の対流じゃなくて、輻射熱なんですよね。

いいもの

やっぱりモノは一番いいやつを見なきゃ駄目なんだよ。その辺のものを買って喜んでちゃダメで、一番いいものを見て歩かないと。博物館とかオークションとかね。オークションなら3千万の茶碗でさえ手に取って観れるからね。

特に茶碗なんかは、ガラス越しに観るのと、直接観るのと、手に取って観るのとじゃ違うわけです。もちろん手に取って観るのと、実際にお茶を飲むのとは違うわけだよ。そして本当にいいモノを観ないと分からないんだよね。なんだってそうなんだろうけれど、例えばワインだっていいものを知ってこそ初めて他のワインが分かるからね。

千羽鶴

私が焼物に興味を持ったきっかけは川端康成の「千羽鶴」なんです。私は2回以上読むことはほとんどなくて、5冊くらいかな。この本は何回も読みました。この小説には志野の筒茶碗が出てくるんだよ、細長い冬用の冷めにくい茶碗です。一方で夏茶碗というのは口が広い平べったいものです。

太田夫人という登場人物には愛人がいたのだけれど死んでしまって、その男の息子と円覚寺でお茶会があった時に会うんだよね。そのときに婦人の娘が締めていた帯が千羽鶴の柄なんだけれど、夫人はその息子とも関係をもって、志野の茶碗をあげるんだよ。で、男が「あなたは抱かれている時に父と私の区分けがついているのですか」と聞くと、「残酷なことをおっしゃるのね。」と言う。筒茶碗の口のところに、口紅がついたような微かな赤みが付いているんだよね。とても古い茶碗なのだけれど、どんな人がそれでお茶を飲んだんだろうとか連想するんだよ。その後、太田夫人は自殺しちゃって、その娘が「その茶碗を返してくれないか」と訪ねてくるんだよ。その理由は同じ手のもので他に良い茶碗はいくらでもある。もしより良い茶碗を持った時に、母の茶碗を思い出されたら嫌だって。

よく分かるなあと思って。それで志野に興味を持ったんだよね。

不合理

焼物はおもしろいもんで、初めだけつくってあとは登り窯でも窖窯でも送って焼いてもらえばいいかと、合理的に考えればそう思うのだけれど、自分で焼くという行為そのものが違うんだよ、想いが籠るというかね。そういうことを前提にしてモノをつくっている段階から、自分で火を入れてコントロールしてつくるっていうまでが楽しいんだよね。非常に不合理にみえるのだけれど。

楽焼き用でいい炭の窯を見つけました。やっぱり炎がいいんだよね。

ろくろと手捻り

加藤唐九郎という素晴らしい陶芸家がいたのですが、瀬戸の出身なのでそこまでよく日帰りで見に行きました。明治以降では僕は一番好きです。

彼はろくろも当然、名人なんだけれど、手びねりで100個か200個くらい茶碗をつくって、それからろくろを挽いたようです。ろくろは一瞬なんですよ。1分かからず引き上げるわけだから。一方で手捻りの方は、手でやっているから当然時間がかかるんです。つまり形と向き合う、対峙する時間が違うんですよ。片方は瞬間で決まるけれど、片方は延々とやるわけです。

唐九郎という人は、そういう風な瞬間で決まってしまうようなものの前に、100個か200個くらい手びねりで延々と向き合うんですね。分からないけれど、感覚を目覚めさせるような感じでしょうか。