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脂汗の流れた絵

私の長い友人に、二十歳すぎまでジタバタして油絵を描いていた奴がいました。最後には1年間かけて削っては重ねて、削っては重ねて、とうとう完成しないで止めちゃいました。会う度にボロクソに貶すのだけれど、貶されてもそれが自分も思っていることであるならば、気持ち良いのかな。

油絵でも何でも、幸せな気分で描いている人だとロクなものがあるわけはないよね。やっぱり夢にでもうなされるくらいで描かないと。ジタバタして脂汗を流して描いた絵と、全く脂汗が流れてない絵は、観ればすぐに分かりますよね。

結婚のはなし

娘が結婚することになったんですよ。懐剣を持たせてやる必要があるかな。お嫁に行く時に、懐に短剣を持たせますが、あれは自害用なんだろうね。亭主を殺して、自分も死ぬということでしょうか、私の解釈だと。あれは注文製作であるんですよ、100万か200万円くらいで。売っているものの方が安いけれど。刀は古いものの方が安いんですよ、人件費が高いから。(笑)新作の方がね。

 ?でも、一回使いきりだから、高かれ安かれ機能すれば良いんじゃないですか?(笑)

確かに継続使用はしないね。(笑)

 ?以前に、結婚に関しては人間関係を登記することというお話があって、批判的だったような気がしますが。

やっぱり他人だからね、家の繁栄の為の結婚ではなく、個人の生き方としての結婚だから。趣味も好みも違う別々の人間だから。昔からみんな「夫婦喧嘩はあることだから、我慢しなくちゃいけない」って言うんですけれど、それは間違っていると思う、ぱっと別れるべきだと思う。我慢しちゃいけない。

コンセンサスの形成

日本人の良いところはコンセンサスを作れるところだと思います。だからモノづくりが良いのでしょう。日本以外の多くの国の人は他人とは合わせないから、自分は自分で。人とは協調しないで勝つか負けるかの世界だと、最後は自分の意見を通す為に人を殺すわけです。歴史的に悲劇的な国があるじゃないですか、侵略され続けた国が。ああいう長い悲劇的な歴史を持っている国の人たちは、そういうところが弱いのでしょうね。つまり主張する力が強いということではなくて、コンセンサスをつくる力が弱い。やはりコンセンサスが取れないと、ダメになるのではないでしょうか。

現場に10人いれば10人ともが気が付くところは違う。やはりモノづくりだと、そういうところを取り入れていこうとする日本は良いところがあるのでしょうね。

美醜

佐々木(以下、Sa):中沢新一さんと2回くらい飯を食ったことがあります。そのときに美とは何ぞやという話をしました。美は人間がつくった概念で、人間が認定して美という言語をつくった。そして美として認識します。「美は人間のものと思っているが、どうでしょうか?」と訊いたんですよ。そうしたら、「佐々木さん、それは違うよ。人間がいるいないに関わらず美はある」って。たぶん、彼が言おうとしているのは、一切合切すべてが美だということだと思います。宇宙そのもの。美でないものはない、と彼は言おうとしたんじゃないのかな。それでもう話を止めました。どう思う?

本橋(以下、Mo):それはどうでしょうね。一切合切が「美」であるとすれば、そもそも「美」という言葉が必要ない気がします。「美」という言葉があるのならば、それの反対の概念の「醜」が存在しているはずです。対概念として成立しているものだと思いますが。

Sa:そもそも美と醜を分けたのは人間だもんね。しょせん人間の知恵もその程度だってことのような気もする。愛憎っていうでしょ。好きと嫌いは紙一重って。やっぱり考え直してみても良いと思う。美と醜という概念をつくった事自体、個々についてもう一度振り返ってみれば、美と醜は変わらないんだという結論になるかもしれない。言語自体が人間がつくった言葉であって、それは私は分からないと思う。

 やっぱり目線の高さが違うのだと思います、中沢さんの。同じ状況に出くわして、いやだなと思って嫌悪感を抱く人もいれば、いいなって思う人もいるわけですよね。それはその人が経験してきた人生によって変わってくるとは思うのだけれど。だから美と醜は背景にそういうことがあると、若い頃はずっと思っていたのだけれど。ただ疑問なことは、夕陽が沈む水平線であるとか、山々が遠くまで見えるとか、晴れ渡るとか。例外無く、みんな感動するし、美しいと思うんですよね、どんな境遇の人であっても。とすれば、どこかに中沢新一さん的なものがあるとしか考えられない。人間がつくったものではなくて、それ以前に共通のものがあるんじゃないかという疑問がありました。2つもっていたわけです、疑問を。

Mo:矮小化した質問かもしれませんが、ネコに夕陽を見せて美を感じるでしょうか?

Sa:例えば、人間がそこにある石を認識して、だから石が存在するという考え方があるよね。一方で、人間が思うか思わないかに寄らずに、石がそこに落っこちてるから石があるんだという考え方もあるでしょ。

 だから同じことを言っているように見えて、違う問題のことを言っているように思える。違う世界のことを銘々が言っていて、そのことを続けても絡み合わないよね。

Mo:なるほど。つまりたまたま今は同じ「美」という言葉で語られている、2つの違う概念ということですね。

Sa:そう。まあ、両方普通は思うよね。

 あとは無関心と関心。無関心というのは目の前を通り過ぎてもないのと一緒だよね。関心というのは、嫌いであれ好きであれ、反応するわけです。反応するというのは対象として受け止めているという関係だから。

親子のバランスシート

佐々木(以下、Sa):私が親として子供と付き合って、バランスシートはどうだったのかと考えることがあります、儲かったのか損したのか。また、私の父はどうだったんだろう、母はどうだったんだろうと、私を生んで育てて。

私の2級下の大学時代からの友達に訊いたんですよ、君の両親はどうだったかって。そうすると彼曰く、「母親は損したかもしれない、父親は得をしただろう。」彼はどちらかというとお母さんのことが好きだったんですね。本橋君の親はどうだろう?

本橋(以下、Mo):うちの親は俄然儲かっているのではないでしょうか、謙虚に言って。(笑)

Sa:それは幸せだな。

Mo:僕がそう言ってあげないと。親の気持ちになったら。

Sa:それはそうだね。(笑)

  でも面白いもんで、本橋君みたいに言える人はそう多くはないでしょう。

Mo:佐々木さんはどうでしょうか?

Sa:私は対子供で考えると、儲かっているんじゃないかな。

Mo:ではその明細を教えて下さい。

Sa:やっぱり会うと幸せだよね。上の子が2ヶ月ぶりくらいに来て、やっぱり顔をみると良いよね。

  結局、親と子という切り口で、銘々がその人の生き方全般を表現しているわけです。自分がどういう生き方をしてきたのか、どういう風に死んでいくのかという。そういう意味で儲かっていると言えるということは、幸せだよね。そう言えることは良いと思うよ。

Mo:そういう生き方というのはどういうことなのでしょうか?

Sa:やっぱり、最終的に生まれてきて良かったな、と。いろいろあるけれども、この星も見捨てたもんじゃないよ、ということかな。彼と会えたのが良かったとか。何十億年前にお互いを作る元素がどこにいたかはわからないけれど、一瞬すっと巡り会うわけでしょ。数十年間。宇宙の歴史の中からすると、ほんとに一瞬。そういう風に考えれば、友達も含めて巡り会って良かったなと思いますよ。4,5歳の頃は、計算が合わないなって思ってたんだよ。楽しいことは、それはいっぱいある。でも哀しいこともあるし、それが辛い。幸せなことは無くても我慢できる、でも哀しいことはあったら我慢ができない。どう考えても、損だなって。それが未だにずっと残ってる、耳の後ろあたりに。でも、24,25の頃には生まれてきて良かったと思えるようになったね。