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諦むるとは明らかに見ることなり

子供の頃、私の田舎の家に仏壇がありました。そこの引出しを開けると経本、お経の分かりやすい本があったんですよ。蛇腹になっているその中の一つに「諦むるとは明らかに見ることなり」という言葉が書いてありました。明らかに見れば諦めるしかない、ということですね。驀進できる、可能性をもっているということは、明らかに見ていないということになりますね。(笑)中学生の頃にそれを見たのだけれど、「こういう考えはどうも理不尽だ、認められない」と思いましたが、今は認めています。

物事を明らかに見れば、可能性があるかどうかがまずははっきりするわけです。可能性のないものに対して、それ以上を求めない。出来るものかどうかがわかる、誰なら出来るかははっきりとわかります。あとはその人がどのくらいアプローチすればこれくらいプラスになるであろうとか、目一杯やってもプラス面はないであろうとか、明らかに見るということはそれがやる前からはっきりわかるということです。つまり明らかに見れば、ある一定以上の期待をする必要がないわけですね。そこで「諦むる」わけですね。(笑)

だからといって、人生を放棄するという意味だとは思いませんよ。もって生まれた運命というものがあるとして、それを変えられると思うことが諦めないことだというのは、やっぱり甘い気がします。「諦むる」というのは本質をきちっと見ることであると思う。過大な期待もしくは失望は、自分もしくは相手が見えていないんですよね。私としては、今は少しだけ見えてきているように錯覚しています。やっぱり思いが強ければ強いほど、結果的に過大な期待もしくは失望となってしまうのではないでしょうか。

ただ、「諦める」には物事をキッチリと明らかに見ることが条件になりますが、それをせず、「諦むる」に直行する人が多いようにも思います。

人間関係の登記

同棲は素晴らしい選択だと思います、結婚よりも。籍を入れるという意味がよく分からないんですよ、私には。人間関係を登記するということが理解できない。人間関係を登記すべきものであると考える人がいれば、そういう人は好きにはなれませんね。ただ籍が入っていないと扶養控除を受けられないという税法上のことであるとか、子供が学校でいじめにあうとかを考えると、現実的な対処としてやむを得ないという面はあるとは思います。ただそういうことが関係のないところで籍を入れるということであれば、どうしても理解が出来ません。

 サルトルも同棲していましたね。私の通っている陶芸教室に来ている人も35年間同棲しています。二人とも仕事をもっていて。かっこいいですよね。

 

新聞のはなし

東京の新聞を全部とったことがあります、丸2ヶ月くらい。日経、毎日、朝日、読売、東京新聞の5紙です。面白かったですよ。何が面白いかと言うと、まず一面の記事が違います。それから事件に対しての扱いが違う。批判的、肯定的、無視を含めて。

 新聞記事が本当かどうか気になって、新聞社に電話して訊いたことがあります。ある記事について訊きたい、と。この記事はどのレベルから取材した内容なのか確認したい。直接末端で買っている人から確認したのか、あるいは中間の卸業者から「末端ではこうなっていますよ」という伝聞なのか、それを確認したいって。記事を書いた人に電話を回してもらってね。そうしたら「伝聞です」って。やっぱりいい加減なもんです。やっぱりその程度のことを前提として書かれている。新聞記事にはこう書かれているという以上のことはなくて、事実は分からないですよね。

 読む時間はだいたい10分くらいで済ませることが多いです。時間があるときはのんびり30分くらい読むこともあるけれど、1時間は読みません。新聞はやっぱり時間がかからないですよ、情報の収集に関しては。インターネットでニュースを拾うのは時間がかかります。クリックして表示されるまでの間で、新聞だとパッと開いて見出しが全部目に入るから。うちのある社員もずっと新聞をとらずにパソコンでニュースを見ていたのだけれど、数年前からやっぱり新聞を見始めましたね。早いし情報の量が違うから。

 だいたい日経新聞の見出しくらいは目を通している人は多いけれど、新聞が面白いのは、その見出しにどう反応するかということが、人によって違うんですよね。何の問題もなくスッと通り過ぎる人もいれば、ちょっと引っかかって、その記事の背景に気が付く人と気が付かない人がいる。それに対する感想も人それぞれですしね。

非・金科玉条

今回のブログのテーマとして、色々なテーマについて色々なことを言って、僕の考えを表現していきたいのですが、それは金科玉条といったことではなくて、どちらかというと非・金科玉条ということに基づいて話していきたいと思います。つまり、「ある場面にはその通りだろう、別の場面にはこうだろう」といった意味ですね。だから通常の金科玉条といったら、「状況に関わらずこうですよ」という絶対的なことです。そうではなくて私が常に思うのは、場面によってはAであることが、常にAであることはないということです。

こういうことを念頭に置いて、このブログで表現していきたいですね。