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わたしの友人のお父様が亡くなられた。83才とのこと。

検査入院中の病院から、お母様に「愛している」と何回も電話があったとのこと。お母様は82才。病院で評判とのこと。当日、面会時間中、手を握りあってずっと見つめ合っていたとのこと。友人が、「どうしていつまでも見つめ合っているの?」と質問するも、返事はなかったとのこと。

善と悪

佐々木(以下、Sa):池波正太郎さんはこう言っています。「善人というのは普段は良いことをやっていて、たまに悪いことをする人、これを善人という。悪人というのはたまに良いことをして、普段は悪いことをしている人、これを悪人という。」これが池波正太郎さんの善人と悪人の定義です。私はどっちかな、五分五分くらいかな。

本橋(以下、Mo):普通の人ですね。僕はどちらかというと、悪人の方じゃないかな。マイナスから入った方が、プラスに転じ易い。

Sa:ハイティーンの子は性悪説の方が好きな人が多いんですね。性善説はやっぱりハイティーンの子は取らないんですよ。性善説は何かいかがわしくて、腐った魚の臭いがするっていうんですよ。(笑) だから性悪説の方に惹かれているようなことを言うと、年寄りから「お前は相変わらず青臭いな」って言われたもんです、二十歳前後の頃。

でも、善と悪の定義は難しいよね。善とは何ですか、悪とは何ですか?

Mo:まあ、相対論じゃないでしょうか、善も悪も。例えば法律で言うと、イスラムの法体系では女性がスカーフを被るのはもちろん善ですが、フランスの法体系の下では悪と言われかねません。主観でしか善悪は判断できませんよね。戦争をする両者は当然、自らを善として戦争するわけですよね。そして相手が悪になる。

Sa:悪の枢軸になるわけね。

Mo:だから自分の立場によってコロコロ変わる、非常にいかがわしいものかも知れません。

Sa:第三者的に見るとそうならざるを得ないよね。

Mo:そういう前提を了解していない状態で善悪を判断するのは危険であると思います。

Sa:私は今まで善悪に興味をもったことはないんですね。子供の頃から、私の友達は悪の方の表現をする人が多いのですが。私にとって善とか悪とかあるのかは分かりませんね。自分にとっての善とは何か、悪とは何か?

Mo:それは言い切れないですよね。善とは何かという言い方ではなくて、何々は善であるとは言えるかもしれないですよね。例えば、美しいものは善で醜いものは悪じゃないですか。つまり何々が善であるというようには、説明できない概念なのではないでしょうか。形容詞的にしか言えなくて、そのものを直接定義はできない。それ以上言い様がなくて、あとは範例を挙げることしかできないのではないでしょうか。

Sa:「美しいものが善である。」

Mo:それは一つの例ですね。

Sa:いや、例ではなくて、そういう風に定義しても良いかもしれない。「美しいものだけが善である」だから美しくないものは悪である、例外なく。

大平原、あるいは大海原に夕日が落ちる。私が学生の頃は富士山の麓にいたのだけれど、夕方になるとうどんの玉を買いに行くわけね、8円で。それで国道に出て歩いていくと、ちょうど西の方に向かって、道路の向こうに富士山が見えるわけ。その富士山に半分くらい太陽がかかって、そこから朱色の粉がわーっと降り掛かるように見えました。そういうのを見て、「なぜ人間はこれを美しいと思うのだろう」そんなことがずっと疑問でした。今は多分、美しいと感じるものは、その美しいのと同じものが自分の中にあるのだと思います、生まれる前から。何が美しいのかを学習するのではなくて、そもそも自分が生まれる前から元素の中にその記憶があって、それがその機会ごとに美に感応する部分が発見されてくると、今では思っています。だから自然の流れ、運行とかは美しいのだと思う。よく飛行機に乗って降りるときに、畑とか田んぼとか、川とか道路とかあるでしょ、いつも美しいと思うんだよね。なんで人間がいい加減につくったものが、なんでこんなに美しく見えるのだろうと。

人間の場合はけっこう学習もするから、その中で場面によって感じ方も変わってくるし、あるいは人の表情についてもその人の生い立ちとか環境によって、恐らく場面場面での感じ方は変わってくるであろうし。若い頃はそういったことで、大きく変わるでしょう。例えば、どういう人が美しいとかね。どういう表情が美しいか美しくないかによって、変わるじゃない。表情によって、信用できるかできないかも発見できるじゃない。それは要するに発見の仕方が違うわけです。20代まではそんな風に考えていましたけれど。

法律のはなし2

「公共工事の談合は、会社の取締役全員を執行猶予なしの実刑にすればなくなるんじゃないか」という話を聞いて、それを先の弁護士さんに意見を聞いてみたところ、「いや、減りませんよ。」と。それを聞いて私は唸ってしまいました。

 ―なんで減らないのでしょうか?

それは要するに人間論だということです。私は短絡的に、例えばうちの社員が悪さをしないように四分の三くらい見張っていれば把握できるだろうと考えていて、そのうちの三分の一を諦めるにしても残りの四分の二はコントロールできるだろう、と話をしたんですよ。つまり5割くらいは改善するのではないかと。そうしたら、「それはない」と言うんです。私は日常の上司と部下の関係や同僚関係を観て、それくらいいくのではないかという見通しですが、彼が言うには本質的に人間は、やる奴は殺されてもやるというわけです。人間の認識論ですね。それで私はまた「うっ」と唸って、その話題は終わり。(笑)

法律ってそういうところにあるというのが、彼と会って初めてわかりました。それまで法律はもっと硬質なものだと思っていました、もっと数学的、即物的でなくちゃいけないであるとか。論理は読む人によって解釈が違うであるということはなくて、一定の解釈がでるように法律は作られてなくてはいけない、といったように。中学生の頃のような感覚をずっともっていました。ところが違うんですよね。法律は要するに人間論なんですよね。

法律のはなし1

若気の至りで私は弁護士さんなんかと23,4歳から喧嘩をしていたから、話して「この人すごいな」とか感じる人がいますよね。大抵そういう人は、謙虚なんですよね。謙虚な人は恐い。(笑)逆の人は必ずボロを出すから。そのボロを捕まえると、けっこう勝てちゃうんですよね、揚げ足を取ってね。その尊敬している弁護士さんですが、知り合ったときに毎週一回、弁護士さん5人くらいと集まってミーティングをしていたのですが、彼は結論を言わないんですよね。見解を言わない。迷っているんですよね。みんなは言うのだけれど。

つまり法律は時勢によって変わるし、法律の文章が同じでも裁判になれば解釈が変わるし、扱いも変わります。裁判官によっても、世論によっても大きく変わります。彼曰く、「法律は法律として文章の中で自律していない」。だから算式があって数字を入力すれば答えは出るということはないわけです。法律はそんなにきちんとしたものじゃない、ということのようです。

文章のはなし

文章はやっぱり見えている部分でよく書けます。考え方が整理されていれば、きれいな文章になるし、美しい文章になります。

先日、私が尊敬する弁護士さんとご飯を食べたのですが、その彼に法律の話を聞いていると、法律というよりは文学談義をしているようでした。その時に長く付き合いのあるグラフィックデザイナーの友人もいたのですが、デザインは余計なものがあると美しくない、と。その点は文章も同じですよね。

私は高校の頃は街の小さな同人誌に入っていましたが、国語の先生で文芸を好きな人がいて詩や文章を書いてみてもらっていました。そうすると余分な言葉は全部カットされるんです。やはり文章も本当に見えていることを書くときには、余分な言葉がでてきません。必要不可欠な言葉だけがでてくる。頭の中で整理されていないようなことを書く時は、どうしても余分な言葉がでてきます。恐らくモノを書く人、小説家にしても詩人にしても文章そのものの有り様を作品にする人は、書きながら自分の考えを推敲していくんですね。考えがあって文章を推敲するのではなくて、文章、言語を道具として、字を手掛かりにして自分の考えを点検している。

面白いことに小説を読んでいて、良い文章はすごく美しいリズム、メロディがあるんですね。言葉の意味というよりは、読んでいてすごく良い音楽のように感じることがあります。もちろん、逆もあるのですが。何をこの人が主張したいのかではなくて、その手前か奥かはわからないけれど、読んでいるだけで気持いいんですね、文章が。そういうものがたまにあります。先の弁護士さんですが、自分の法律事務所で会報を出して、そこで随筆を書いているのですが、文芸家が書いたみたいで法律家が書いた文章とは思えない。法律家も色々な契約書を書いたり、裁判所に提出する文章を作成したりと、彼らも文章を書くのが商売なわけです。彼は小説が好きなのですが、そういう文章とは全く違って、まさに小説家が随筆を書いているようでびっくりしました。

結局、コンピューターがあって係数を入れれば自ずと答えが出るという仕事ではないんですよね。大変ですよね。外れると自分のクライアントが困るわけだし。彼の場合だと、いろんな要素に対して、自分の思っている以外の要素はないかとか、本当にそれでいいのか、ずっとぎりぎりまで考えるみたいです。だから、ああいう良い随筆が書けるんでしょうね。