文章のはなし

文章はやっぱり見えている部分でよく書けます。考え方が整理されていれば、きれいな文章になるし、美しい文章になります。

先日、私が尊敬する弁護士さんとご飯を食べたのですが、その彼に法律の話を聞いていると、法律というよりは文学談義をしているようでした。その時に長く付き合いのあるグラフィックデザイナーの友人もいたのですが、デザインは余計なものがあると美しくない、と。その点は文章も同じですよね。

私は高校の頃は街の小さな同人誌に入っていましたが、国語の先生で文芸を好きな人がいて詩や文章を書いてみてもらっていました。そうすると余分な言葉は全部カットされるんです。やはり文章も本当に見えていることを書くときには、余分な言葉がでてきません。必要不可欠な言葉だけがでてくる。頭の中で整理されていないようなことを書く時は、どうしても余分な言葉がでてきます。恐らくモノを書く人、小説家にしても詩人にしても文章そのものの有り様を作品にする人は、書きながら自分の考えを推敲していくんですね。考えがあって文章を推敲するのではなくて、文章、言語を道具として、字を手掛かりにして自分の考えを点検している。

面白いことに小説を読んでいて、良い文章はすごく美しいリズム、メロディがあるんですね。言葉の意味というよりは、読んでいてすごく良い音楽のように感じることがあります。もちろん、逆もあるのですが。何をこの人が主張したいのかではなくて、その手前か奥かはわからないけれど、読んでいるだけで気持いいんですね、文章が。そういうものがたまにあります。先の弁護士さんですが、自分の法律事務所で会報を出して、そこで随筆を書いているのですが、文芸家が書いたみたいで法律家が書いた文章とは思えない。法律家も色々な契約書を書いたり、裁判所に提出する文章を作成したりと、彼らも文章を書くのが商売なわけです。彼は小説が好きなのですが、そういう文章とは全く違って、まさに小説家が随筆を書いているようでびっくりしました。

結局、コンピューターがあって係数を入れれば自ずと答えが出るという仕事ではないんですよね。大変ですよね。外れると自分のクライアントが困るわけだし。彼の場合だと、いろんな要素に対して、自分の思っている以外の要素はないかとか、本当にそれでいいのか、ずっとぎりぎりまで考えるみたいです。だから、ああいう良い随筆が書けるんでしょうね。