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2007-05-09

古い友人の“雑言居士”という人から、コメントのメールを頂きました。

(http://d.hatena.ne.jp/taiju-ssk/20070506)

面白いので以下の通り掲載させて頂きます。

1、 理性は2流の狂気である。

  とする根拠について述べよ。

2、1流と3流の狂気を定義せよ。

最初の2つの質問と申しましょうか立言に対しては、

まとめてご回答します。

狂気とは、存在論的に存立するのではなく、

認識論的に導きされる。

因って、世界が狂気であるとすれば?との質問自体、

Non Senseである。

さように、世界は狂気たりえないほど、多様であり、

混沌としており、その世界において、

純粋たらんとすること自体、狂気であるがゆえに

理性は狂気である。しかし、その純粋さは、

多様な世界に生じえる(存立しているのではない!)の

純粋さの他の形式を排除せんとするがために二流である。

一流の狂気は、混沌かつ多様たる世界を、

その認識的転回により、拒否し、隔絶し、かつ飲みこんでしまう。

二流の狂気は、あらかじめ不可能であることを承知しつつ、

もしくはそれを忘却したかのように、世界を純化できるかのように

振る舞い、かつ増殖する。(cf: アウシュビッツの悲劇と

ゲーデルの不確定性原理によって示された不可能を参照せよ!)

三流の狂気は、世界と共存する。それも、平和裏に、仲良く!

「狂気」という社会的分類に過不足なくあてはまる狂気。

歴史を紐解けば、19世紀に典型的であったヒステリー患者、

20世紀以降の統合失調症(schizophrenia、ある時期、分裂症と

呼ばれた症状)患者とか。

狂気の社会作用、社会転覆への誘惑、社会の振動があらかじめ去勢され、

パプティノコンに閉じ込められた狂気。

これでは、我々と同じではないか?すなわち、自省の意味を込めて

三流と呼ぶ。

3、言い訳をできる人とできない人を定義せよ。

「できる/できない」の分節化は、目的語たる対象として、

もしくは主語たる主体の能力の連関・組合せ・境界として定義される。

「言い訳」は、目的語としての他者の共感を呼び起こす対象

(実体とは別にそれらへの期待も含まれる)ならびに/ないしは

主語たる主体の「呼びかけ」の営為として成立する。

ただし、人間は群生する、社会的とも言う、本能があるので、

共感の対象にはこと欠かない。言い訳は、詰まるところ、

他者の共感を呼び起こすコミュニケーション能力である。

「言い訳」は「言い訳」であることを隠すような素振りを見せつつも

あからさまに「言い訳」であることを誇示しつつ、現象する。

その腐臭から隔絶しつつ、純粋に存在するためには、その主語は一流の

狂気たることが求められる。

4、言い訳をする人としない人を定義せよ。

前述を繰り返す。「言い訳」は人の類を社会的存在たらしめる本能である。

「しない人」は、概ね、しているのをその観察者たる自分が、たまたま

見てない人でしかない。「できない人」との区分において誤解が生じ易いが、

多くの場合、詐称であるので、「王様は裸だ」と叫ぶことをお奨めする。

5、己の生を肯定する為に、男も女も言い訳をしなければならない。

当然である。「生」と「肯定」は同義語であるがゆえに。

フロイトはタナトスという死への本能を、語義上、提起したが、

その実在性に対する論拠は乏しい。ただし、前述した、

純粋なる狂気は、概念上、例外として措定される。

なお、主語を「男も女も」としたのは、この立言したる者の

Sexへの哀悼ないしは執着が修辞上、発現したもので、立言の論旨を

展開する上での効果は乏しいものと思われる。

6、そのようにしなければいてもたってもいられない発情を

  才能と云う。

多くの場合、才能は、質ではなく、量としてしか測定され得ない。

質的な転回とは、大抵、量的な躍進の修辞である。

ただし、かのヘーゲルも「量が質に転化する」との言葉を残したが、

ときに、量は質を凌駕しえる、少なくともそのように見える。

近代は、時速10kmにも満たない移動速度が地上で時速200km

空中であると時速1000kmを越える、に至るまでの

Paranoicなときの流れである。近代とは「そのような」凡庸な

しかし熱情的な「言い訳」の加速度的な累積過程である。

その時代的な背景として、「才能」が顕現化し、その極限として

トリックスターたる「天才」がWorkしたのである。

その加速度を、「発情」と呼ぶのは、これまた、立言者の

Sexに対する執念なのであろう、か?近代を男根的修辞を伴って

表現すること、それ自体、近代的であることは指摘しておきたい。

不可能を可能にする

苦境に陥ったときにその人の本質は表面化しやすいと思います。苦境に陥ったときに、いつも僕はできるはずだと思うわけです。言葉にするんですよ、頭の中で。絶対にできるはずだ、と。何かあるはずだ、この制約の中で、この状況の中で、と。そうすると、大体みつかるんですよ。私が20代の頃、ウルトラCはまだ新しい言葉でしたが(笑)、ウルトラCがあるはずだって思っていたんですね。やっぱりそういう風に思えるかどうかです。ぱっと見ると状況は不可能、その道に詳しい人間に聞けば誰だって不可能って言うだろう。そういう段階で、可能性はあるはずだと言える発想が持てるかどうかですね。そういう発想が持てると、次にそういったことを発見できる方向に脳細胞が動いてくれますよ。難しいかなって思うと、脳細胞は駄目になっても良いように、駄目になった時の言い訳を考え始めるから。

まあ、自分を信じるというのは難しいですね。

考えるということ

考えなくて済むということは安心してしまいます。どこかで安心しているんですよ、恐らく。僕の場合だと本を読んでいても、何をやっていても、気になることがある時は考えてしまいます。特に本を読んでいる時は悲惨で、文字を追っかけているのだけれど、頭の中に全く入って来ないですよね。(笑)うんざりするんですよ、それで考えを打ち消してもう一度読もうとしても、また駄目なんですよね。

結局、考えるということについて私が思うのは、さあ考えましょうと言ってテキストや参考書を開く。それで計算して答えを出す。これは考えた内に入りません。それは単なる処理です。インプットすれば誰でもできる。CPUで演算すれば誰でもいいわけです。

考えるというのはそうではなく、そこででた答えがもしかしたら違っているかもしれない、そもそも前提から。そういうことが気になって仕方がなくて、本を読んでいても、電車に乗っていても、考えようとしなくても、眠っていても、頭の中に入ってきちゃう。これが本当の人間にとっての考えるということであって、先の例は考えるという言語に値しない、それが僕の考えです。だいたい何かを発明するときにも、夢の中で発明するなんていうことをよく聞きますよね。会社を一歩でたら会社のことを思い浮かばないという人は、間違いなく仕事ができないと思います。世間から一定の評価を受けるような創造的な素晴らしい仕事は絶対にできないですよね。

だから考えるということに対して、もっと不安を持って欲しいんですよね。不安がないからコミュニケーションが雑になってきて、何の問題も感じなくなっちゃう。

諦むるとは明らかに見ることなり

子供の頃、私の田舎の家に仏壇がありました。そこの引出しを開けると経本、お経の分かりやすい本があったんですよ。蛇腹になっているその中の一つに「諦むるとは明らかに見ることなり」という言葉が書いてありました。明らかに見れば諦めるしかない、ということですね。驀進できる、可能性をもっているということは、明らかに見ていないということになりますね。(笑)中学生の頃にそれを見たのだけれど、「こういう考えはどうも理不尽だ、認められない」と思いましたが、今は認めています。

物事を明らかに見れば、可能性があるかどうかがまずははっきりするわけです。可能性のないものに対して、それ以上を求めない。出来るものかどうかがわかる、誰なら出来るかははっきりとわかります。あとはその人がどのくらいアプローチすればこれくらいプラスになるであろうとか、目一杯やってもプラス面はないであろうとか、明らかに見るということはそれがやる前からはっきりわかるということです。つまり明らかに見れば、ある一定以上の期待をする必要がないわけですね。そこで「諦むる」わけですね。(笑)

だからといって、人生を放棄するという意味だとは思いませんよ。もって生まれた運命というものがあるとして、それを変えられると思うことが諦めないことだというのは、やっぱり甘い気がします。「諦むる」というのは本質をきちっと見ることであると思う。過大な期待もしくは失望は、自分もしくは相手が見えていないんですよね。私としては、今は少しだけ見えてきているように錯覚しています。やっぱり思いが強ければ強いほど、結果的に過大な期待もしくは失望となってしまうのではないでしょうか。

ただ、「諦める」には物事をキッチリと明らかに見ることが条件になりますが、それをせず、「諦むる」に直行する人が多いようにも思います。

人間関係の登記

同棲は素晴らしい選択だと思います、結婚よりも。籍を入れるという意味がよく分からないんですよ、私には。人間関係を登記するということが理解できない。人間関係を登記すべきものであると考える人がいれば、そういう人は好きにはなれませんね。ただ籍が入っていないと扶養控除を受けられないという税法上のことであるとか、子供が学校でいじめにあうとかを考えると、現実的な対処としてやむを得ないという面はあるとは思います。ただそういうことが関係のないところで籍を入れるということであれば、どうしても理解が出来ません。

 サルトルも同棲していましたね。私の通っている陶芸教室に来ている人も35年間同棲しています。二人とも仕事をもっていて。かっこいいですよね。