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頭がいいとか悪いとか

仕事ができるとかできないとか

折り合いがつけられるとかつけられないとか

好きでそのように生まれてきたわけではないのだから、

だから、本人の責任ではないと人は云う。

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好きなにおいと、

嫌いなにおいを差別する。

好きな声と、

嫌いな声を差別する。

好きな人と、

嫌いな人を差別する。

信用する言葉と、

信用できない言葉を差別する。

生まれた時から。

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性格のありようは本人の意志。

修正の可否も本人の意志。

意志に善悪無し。

意志は自由。

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川底を雌の魚が泳ぐ。

雄の魚が近づく。

何匹かが近づく。

何匹かが雌に拒まれ、

一匹が選ばれる。

川底を覆いつくす、

夥しい卵の意志。

アンチ・カーネギー

カーネギーという人の書いた本を読んだんですよ。僕が23,4の頃、部下が6人くらいいて、毎日ミーティングしていました。仕事の内容、その日あったこと、翌日の予定のこと、全部根掘り葉掘り聞いて。そういうときにカーネギーの本を読んだら、こう書いてあった。「仕事ができない人に仕事を出来るようにする、それに使うエネルギーを出来る人間を探す方に使えば、結果はその何倍も出る」って書いてありました。その時に私は、カーネギーは嫌いだなって思いました。自分の部下って、一生懸命やっていれば結果が出なくてもなんとかしてあげたいという気持も出てくるし。それを否定したわけですね。

言いわけ

言いわけをしない人にわたしは会ったことがない。

質問をしないのに、そのようになった訳を、自分にはかかわりがないかのように説明する。言いわけということはどういうことであるか、というふうに考えたことがないと思われる。大会社の社長さんでもそのような人が沢山いるわけですから、サラリーマンの方々がそのようであったとしても、恥ずかしいことではないのでしょうが、聞いている方としては不愉快です。言いわけをしながら、又同じような失敗をしますと宣言しているようなものですから。

諦むるとは明らかに見ることなり

子供の頃、私の田舎の家に仏壇がありました。そこの引出しを開けると経本、お経の分かりやすい本があったんですよ。蛇腹になっているその中の一つに「諦むるとは明らかに見ることなり」という言葉が書いてありました。明らかに見れば諦めるしかない、ということですね。驀進できる、可能性をもっているということは、明らかに見ていないということになりますね。(笑)中学生の頃にそれを見たのだけれど、「こういう考えはどうも理不尽だ、認められない」と思いましたが、今は認めています。

物事を明らかに見れば、可能性があるかどうかがまずははっきりするわけです。可能性のないものに対して、それ以上を求めない。出来るものかどうかがわかる、誰なら出来るかははっきりとわかります。あとはその人がどのくらいアプローチすればこれくらいプラスになるであろうとか、目一杯やってもプラス面はないであろうとか、明らかに見るということはそれがやる前からはっきりわかるということです。つまり明らかに見れば、ある一定以上の期待をする必要がないわけですね。そこで「諦むる」わけですね。(笑)

だからといって、人生を放棄するという意味だとは思いませんよ。もって生まれた運命というものがあるとして、それを変えられると思うことが諦めないことだというのは、やっぱり甘い気がします。「諦むる」というのは本質をきちっと見ることであると思う。過大な期待もしくは失望は、自分もしくは相手が見えていないんですよね。私としては、今は少しだけ見えてきているように錯覚しています。やっぱり思いが強ければ強いほど、結果的に過大な期待もしくは失望となってしまうのではないでしょうか。

ただ、「諦める」には物事をキッチリと明らかに見ることが条件になりますが、それをせず、「諦むる」に直行する人が多いようにも思います。

個人的な理由

僕が好きな詩の一節に「取れたボタンの一つにも個人的な理由がある」というものがあります。鮎川信夫という人が書いたのですが、とても大好きで。この前の話ですが、恐らくビルの担当者が漠然とした注文を出したのには個人的な理由があって、それを鵜呑みにした設計者にも個人的な理由があるわけですね。(笑)

個人的な理由を生産に結びつけるにはパワーが必要です。パワーは生産性を上げ、あるいは生産性の上がらない個人的な理由を切り捨てることにより、生産に結びつけるわけです。