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将棋のはなし

将棋は、小学生の頃に親父に教えられて、中学生の頃少しやって、高校ではたぶん一番強かったんじゃないかな。修学旅行のときに、当時岩手から東京まで急行で8時間かかりました、特急は使わなかったんですね。あと、東京から大阪までも8時間くらい。その往復の車中で将棋大会があって、全勝は私だけだったんです。そうしたらその中の私に負けた数学の先生がですよ、「君、○○とやったか?○○の方が強いだろ」って言うわけですよ。なんでそういうことを言ってくるかというと、私は平均点がギリギリじゃないですか。その彼は学年でトップの人間だったんですが。「勝ちましたよ、さっき」って。(笑) でも、将棋は最初にやめました。

なぜやめたかというと、将棋をやっていると頭が真っ白になってくるんですよ、それが嫌で。焼き物で土をこねるときの真っ白とは違って、脳みその中で脂汗をかいている感じですね。酸欠状態です。それが嫌で。

その後は、詩も習字もやめました。

習字のはなし

大学生の頃、街が小さいからアルバイトの口がありませんでした。ないものだから、自分で習字の塾をやりました。習字はなんとなくダラダラやっていたから。大学2年の頃です、材木屋で板を買ってきて、ホームセンターで足を買ってきて自分で付けて、机を作りました。自分の下宿の6畳間に並べて、近所の小学生を集めたんですが、うるさくて、うるさくて。言うことも聞かないし、頭にきちゃって。半年くらい教えて辞めちゃいましたね、言うこと聞かないから。(笑) でもその中で真面目な子がいて、その子だけは私が大学にいる間は週に一度は教えていました。

あとは大学の留年が決まって5年目のときに、これ以上ダラダラやっても仕方がないから、一区切り付けるために1年間やってから習字をやめようと決めました。その1年間は毎日やりましたよ、2時間。そして記念にどこかの段でも取ろうかと思って。書道の「会」というのはいっぱいありますが、普通、初めての人が高い段を受けてもすぐにあげないわけです。(笑) 5段を取ろうかと思ったのだけれど、遠慮して3段だけ取ってやめました。

同人誌のはなし

高校のときには初めて自分の詩集を自費出版しましたが、それは損をしました。(笑) 大学に入ってからは、同人誌で20冊くらい出しました。それは1度も損をしたことがない。私だけじゃないかな。みんな損をしていますよ。私は広告を取って、それで印刷代を全部出して。大学5年目のときには、広告が載っていない詩集を最後に一度だそうかと思って、年に4回出して。それは売るだけで回収しました。学校でみんなに買わせる、押し付けるの。(笑)

一番儲かったのは私が19歳のときに出した本でした。500部刷ったのですが、印刷代が町の印刷屋で5~60,000円でしたが、刑務所に持って行くと3分の1くらいで作ってくれる。だから甲府の刑務所に行ってね。(笑) 当時、学生の仕送りが平均すると12,000円くらいでした。学食が35円とかね。活版で表紙は2色、「麓」という字を黒のベタで一面にビシっと印刷して、背景を赤にして。それは印刷代が20,000円かかってないくらいかな。広告をとったら印刷代の1.2倍くらい。それで1冊50円で全部売りました、25,000円。儲かった。(笑) 仕送り2ヶ月分です。

 大学時代に付き合っていたのは、小説や詩、俳句を書いているような文芸部の連中と学生運動をやっていた過激な連中と、あとは演劇をやっているような連中と付き合っていました。柔道部の部長で体育会の会長をやっていた奴も、私の詩の会に入っていたりしました。19歳くらいの時に詩の会をつくって、2,30人くらい人が集まりました。そこで同人誌を出していたんですね。詩を書いて、みんなで批評しあう、詩集を出すといったことをしていました。

 同人誌というのは、全国にいっぱいありました。私も高校の頃、岩手の私の街に1つだけ同人誌があって、それは詩も評論も小説も全部集まったような同人誌で、自分の書いた原稿を出すと載せてくれるわけです。会費をとられるけれど。同人誌の運営方針によって違いますが、同人は自分の書いたものは基本的に載せてもらえます。同人は無審査で載るけれども会員は同人が審査して載せるというように、同人と会員と分けているかたちであるとか、いろいろあります。

 そんな風にして、詩を出して批評して、という活動をしていました。

 私が学生の頃は吉本隆明さんが人気でした。この辺り、佃か月島辺りに住んでいたんじゃないでしょうか。当時の文芸評論家というと、吉本隆明と江藤淳が人気がありました。江藤淳の短い評論集で『母の成熟と崩壊』という3,40ページ程度のものがあるのですが、おもしろいですよ。30分くらいあれば読めてしまいます。ある教授の勧めで読んでみました。

 その教授は授業中に私の詩を褒めたんですね。一見、褒めた。でもよく聞いてみると、そうじゃないんですね。それでその人に時々見せに行ったり、批評を書いてもらいました。その人は近代文学専攻でした。彼の授業だけは真面目に出ました。(笑)

望遠鏡のはなし

望遠鏡のはなし

中学校、高校の頃は望遠鏡を作るのが好きでした。中学生の頃は簡単なガリレオ式とかケプラー式であるとか、簡単な構造のものを。高校生になってからは、図書館に通って複合レンズの焦点距離であるとかを勉強して、いろいろ作りました。

結局、理論値の通りの像を結ばないんですよ。なぜかというと、収差があるから。プリズムで言うと七色の光がでますよね。普通の光でも色を含んでいますよね。それがガラスを通過するときに分光しちゃうんですね。球面収差とかコマ収差とか色々あって、それは高価なレンズを使えばかなりの程度まで解消できるのですが。最初は分からなかったから、とりあえず色収差を抑えようということで、通信販売でレンズを買いました。そのレンズが高いんですよ、大きくなればなる程。仕方がないから、小さいのを買いましたね。小さいレンズの方が色以外の収差が出にくいのですが像を結びませんでした。というのは、計算上は倍率が100倍以上でているのですが、そうするとそれだけ拡大してきれいな像を結ぶだけの情報量が、私の買ったレンズの口径ではでないんですよ。要するに情報は口径の範囲でしか入って来ないんですね。残念でしたね。(笑)

仕方がないから、高倍率のものは諦めて、虫眼鏡用の一番大きいレンズ、老人が使うようなものです。それを対物レンズにして、実像を2度反転させてみるようなものを作ったのですが、それはよく見えましたね。ただ、倍率は30倍程度でした。

天体はあまりみませんでした、遠くの山とかですね。月はたまに見ましたけれど、100倍以上だと月も面白いですよ。

反射鏡ならば色収差はでないんですよ。普通、天体望遠鏡と言えば反射鏡です。私が高校の頃に作ったものはレンズを通して見るようなものです。光がレンズを通過すると、そこで収差が出るんですよ。反射レンズは通過しないで、反射するだけだから。

倍率が高いと、月を見ているその時に月が動いて行きますからね。クレーターまで見えるし、やっぱり遠くの見えないものが見えるという経験は楽しいですよ。

生い立ち(=病歴?)

昭和21年の魚座、3月22日ということで登記されています。事実は知りません。(笑)

親父は教員、母は家に居ました。親父は2代目で、農家の末っ子だった祖父の家が始まりです。祖父の実家は、岩手の山奥の盆地の中に隠れるようにしてある集落にあった何百年か続いた農家でした。親父は長男、明治生まれです。親父の兄弟もだいたい教員でした。末の叔父だけは早稲田をでましたが、後はみんな師範学校をでました。家は農業と酒・醤油・雑貨類の小売りもやっていました。私は長男でした。

2歳の頃、消化不良で死にそうになりました。病院に行ったら「ここは寺じゃねえぞっ」と院長先生に言われたそうです。(笑)院長先生の顔をなんとなく記憶しています。名前は河井先生です。子供の腸壁は目が粗くて、毒素を濾す力がないんですよ。イメージで言うと、腸内で発生した毒素が体の中に入っちゃうということですね。あと、消火不良を起こすと体内の水分がなくなって、脱水症状になります。そうなると、もうもたない。だから自家中毒の子なんかも危なくて、下痢をして吐いちゃうと、それ以降は水を飲ませても吐きますから。お湯を飲ませても吐く。じゃあ、何だったら吐かないかというと、ポカリスエットだとか吸収の良い飲み物。もっと進むと、点滴をしないと死んでしまいます。

病気の歴史みたいだけれど(笑)、4、5歳の頃は小児結核にかかりました。1週間に2、3回は院長先生が往診に来ていました。毎日、昼寝をしなきゃいけませんでした。親が来ると怒られるから、いつも寝たフリをしていました。少し病状が良くなると、毎日病院へ行って静脈注射をしていました。注射が下手な看護婦がいて、針を入れて抜いてを繰り返す。4、5歳で小さいし、私は血圧が低かったから、血管が細かったんですよ。だから針が入らなかった。それには本当に腹が立ってね。(笑)

あとは6歳の頃に。爪が化膿したんですよ。病院に行ったら、手術台に太いゴムみたいなものでグルグル巻きに固定させられて、ペンチでバリッてやられました。(笑) それは頭にきた、今でもはっきり覚えていますよ、その外科医の顔。太っていてヒゲを生やしていて、顔が大きい、背も高めでした。(笑)

本当に病気ばかりでした。中学高校の頃、毎年冬から春先は気管支炎で、レントゲンを撮ると気管のあたりが真っ白でした。気管が弱いんです。病気の歴史ですね、言い出すときりがない。骨折は中学生くらいのとき、器械体操で落っこちちゃって。ギブスをはめられて隙間から臭いが立ち上ってくる。あれは強烈に臭かったな。(笑)

16歳の時には盲腸を切りました。入院3日目くらいに病院をこっそり抜け出して映画を観に行ったら、怒られちゃってね。

高校3年のとき、1年間化学のテストを白紙で出したんですよ。追試を受けて、一発で単位をもらおうと思って。一日勉強すれば受かると思って。40点未満は赤点でした。全科目、僕の平均点は41点くらいですよ。(笑) 中間試験の成績をみてから、次は何点取らなきゃいけないって。それで試験の前の日の一夜漬けの時間割を決める訳です。当然、普通科学年200人中、198番とか197番とか。(笑)それで化学のテストですが、「白紙で出すなんて学校を馬鹿にしている、だから追試験を受けさせない」というんです。それは無茶苦茶ですよね、ルールがあるのだからルール通りにやらないと。親父は他の学校で校長をやっていたのですが、その高校に呼ばれて行って、「実はこういう訳で、教職員会議で息子さんは落第、卒業させられない。ただし、春休み期間中の10日間毎日学校に朝から晩まで来て先生の指示することをやれば、単位はあげないけれど卒業はさせます」と。高校を卒業する為の決まっている単位はクリアしていたんですね。県立ならば全科目とらないと卒業できないのが本来なのだけれど。それで、「春休みにやるかやらないかのご返事を頂きたい」と。

その頃、大学受験が残っていたのだけれど、風邪をひいたって言って寝ながら小説を読んでいました。そうしたら親父が帰ってきて、バーンって小説を取り上げられて、「起きろー!」って頭を拳骨で2つぶん殴られました。「正座しろ」って。そして「どうするんだ?」と。私は「はい、春休みに行きます」と答えました。作文を書かされたり、勉強をさせられたりでした。

大学に入って、清々しましたよ。うちの親父は本当に怖かったから。家から出て、天国でしたよ。4月に入学して、5月くらいになったら友達がみんな田舎、実家に帰りたいと言うんですよ、こいつら馬鹿かと思ってね。(笑) 僕にとっては本当に天国でしたから。なんせ朝寝るんですよ、明け方に。すると自動的に学校に行かなくなる。夕方に起きて、空手部に入っていたものだから、部の練習に行くんですね。というわけで、大学1年の頃には出席をとらない先生が3人しかいなくて、単位は3科目しか取れなかった。

でも大学に入ってからは、病気をしなくなりました。