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焼き物がわかるということは、

よいとか本物とかが、

わかることではなく、

躰がふるえることだ。

 

何年か前に、楽家何百年展、というのを観た。

代々続いたけれど、ついに長次郎を超えられた人はいない。当代の吉左衛門は高い値段で取引されているようだけれど、まったくよいとは思わない。長次郎というより利休なのだと思う。利休がなければ長次郎はなかった。長次郎に拮抗するのは光悦である。光悦長次郎を毎年観ているように思う。

 

楽家450年展を開催中であると若い友人が教えてくれた。吉左衛門は嫌いだが、光悦と長次郎に会いに行こうと思う。

ついでにひとこと

卯の花墻

鬼ヶ島

紫匂い

ならべて同時に会いたいものだ、

と常々思っている。

ちなみに、

国宝に指定されている日本で焼かれた茶碗は、卯の花墻と光悦の不二山の2碗のみである。